ドライ・ジン と オールド・トム・ジンの誕生・歴史|カクテルのお酒・スピリッツ編

世界4大スピリッツの中でも特に人気のある「 ジン 」。

カクテルのレシピを見ても、特に数が多いのが「 ジンベース 」。 カクテルの王様と言われている「マティーニ 」もジンベースです。他にもショートカクテルで代表的なカクテルに「 ギムレット 」があります。 ロングカクテルでは「 ジントニック 」・「 シンガポール・スリング 」などが有名です。

ジンの原型となる「 ジュネヴァ 」は現在のオランダ・ベルギーで誕生しました。 最初薬用酒としてこの世に生まれたジェネヴァは、ジェニパーベリーの良い香りが人気の原因となり、オランダ国民に深く浸透します。 その後イギリスに持ち込まれたジンは、イギリス国内でも人気を博し、18世紀には歴史上最高のジン消費量を記録します。 ジンのおかげで税収も増えますが、それと同時にアルコール中毒や犯罪をも増加させ、一時死亡率が出生率を超えてしまうほどの社会問題に発展してしまいます。後にこの時代を「 狂気のジン時代 」と呼ぶようになります。

19世紀に入ると、連続式蒸留器の開発により、それまでの雑味を砂糖や大量のボタニカルで隠す必要がなくなり、クリーンで上質なジンが製造可能となります。現在のドライ・ジンの製法はこの時に確立します。

そしてジンは海を渡り、アメリカへと伝わると、やはりそこでも人気を得て、それまでとは違いカクテルベースとして使用されるようになり、世界中で飲まれるようになりました。

これらが「 ジンはオランダで生まれ、イギリスが育み、アメリカが輝かせた 」という言葉が生まれた原型です。

それではジンはどのように生まれ、どのように定着していったのか? その経緯をご紹介いたします。

※ ジュネヴァの誕生・歴史は ⇒ コチラ

ドライ・ジンの歴史・イギリスへの入荷

チェコ・プラハ郊外で行われた 白山の戦いの絵

ジンの原型であるジュネヴァがイギリスへ入ってきたのは、1618年 ~ 1648年にヨーロッパ中で行われていた30年戦争の最中でした。 入ってきた当時はイギリス国内でも少量生産されていた薬用酒と同等の扱いで、国民から絶大な人気を誇るものとは程遠い物でした。

30年戦争が終結し、1649年にこれまでの国王であったチャールズ1世が処刑され、その後イギリスはキリスト教カルヴァン派のピューリタン( 訳すると清教徒、ローマ教会と絶縁し、聖書に基づき信仰の清純さを求めたのでこの名前になった宗派のこと )オリバー・クロムウェルに支配されるようになりますが、この宗派には「 飲酒は人間を堕落させるもの 」という教えがあり、蒸留業は発展しません。

1660年にクロムウェルが死去するとチャールズ2世が王政を取り返します。しかし蒸留業は多少上向きになっただけで、大きい発展は見られませんでした。

ジュネヴァからジンへ

ウィリアム3世

名誉革命

1688年 ~ 1689年に転機が訪れます。 この頃プロテスタント信仰の強い議会+国民と、カトリック信仰のジェームズ2世との間で深い溝ができていました。 そんな時に、カトリック信仰をさらに重用させるため、プロテスタント信仰であった大臣を罷免(ひめん)してしまいました。 その出来事をキッカケにプロテスタント信仰の議会がついにジェームス2世にクーデターを起こします。 プロテスタントとして育てられたジェームズ2世の長女メアリーに王位を継承させ、その後、当時オランダの統領でありメアリーの夫であるオレンジ公を、オランダ統領と兼任でイングランドの国王として迎え、この時にオレンジ公・ウィリアム3世が誕生しました。 これが「 名誉革命 」と呼ばれる出来事です。

ウィリアム3世が国王の座に就くと、蒸留産業も大きく変わります。 ウィリアム3世の自国酒でもあるジュネヴァ( ジンの原型 )がイギリス国内で広まり、人気を集めます。

ジュネヴァが一気に広がった背景には、オランダ出身であるウィリアム3世の人気と、当時イギリスではフランスから輸入されていたワインやブランデーが飲まれていましたが、関税が高く一般国民には高級過ぎて、上流階級くらいしかとても手が出なかったことが理由としてありました。

それに加え蒸留業にとっては追い風となる出来事が起きます。 プロテスタント信仰のウィリアム3世はカトリックを信仰しているフランスのルイ14世を敵視していました。 そして1689年フランスからのブランデーとワインの輸入を禁止してしまいます。その後1692年には輸入は解禁となりますが、前回のただでさえ高い関税をさらに引き上げたことで、上流階級の中でもごく一部の富裕層しか飲むことができませんでした。 ウィリアムはこの先フランスとの戦争の資金準備をするために国内の税収を上げる国政をします。

新しい国政によるジンの台頭

50年間蒸留業を独占していたリヴァリカンパニーから独占権を終了させ、国民のだれもが蒸留器、樽の購入、蒸留酒の製造ができるようにしました。 さらに国内の穀物から生産された蒸留酒にかかる税金を減らします。 これによってパン製造の為に作られたが、パンを作るには十分な品質に至らない穀物を蒸留酒に回し、いわゆる穀物生産のロスカットができるようになり、地主達からの支持も同時に得ました。

ただ問題がないわけではなく、蒸留酒の原料である穀物がほぼ質の悪い穀物なため、質の悪く味わいも悪い蒸留酒が出来上がってしまう事、元々蒸留酒作りが盛んではなかったため、蒸留技術不足により、オランダの様な上質さはありませんでした。 そのため様々なスパイスやハーブなどでごまかしていたため、味の良い蒸留酒ができるはずもありませんでした。

しかしこの質の悪い蒸留酒は、税金が安く、ビールよりも安く購入できること、ビールよりもアルコール度数が高く、すぐ酔い、依存度も高いことから、貧しい労働者を中心に大きく広がることになります。 その後も、ジェニパーベリーを中心にさらに様々なスパイスやハーブなどを使い進化していきます。 ただ質の悪い穀物をどんどん使用していくことに拍車がかかり、上質さはこの後も向上はしませんでした。 こうしたことから、オランダのジュネヴァとイギリスのジュネヴァを区別するため名前を変更します。 オランダジュネヴァを「 Genever 」、イギリスジュネヴァを「 Geneva 」とよく似ていますが違いを付けた表記をするようになり、イギリスジュネヴァは「 Geneva 」からより言いやすい「 Gin 」と呼ばれるようになり、その名前が定着していきました。

狂気のジン時代とジン取締法の始まりの始まり

エドワード・マシュー・ウォードによる作品「 南海泡沫事件 」

1700年代前半、イギリスは世界でもトップと言っていいほどの急速な発展に伴い、民衆は田舎で安い賃金の農作業で働くより、夢や成り上がるチャンス、貴族、商人との出会いなどを求めてロンドンへの移住者が増加します。しかしそういったチャンスなどを掴む人はごくわずかで、結局ロンドンでも低賃金で働き、その日の宿や食事すらない人々が溢れかえるようになります。そうなると当然スラム街が出来上がり、現在の様に産業廃棄物や一般のゴミなどを処理する施設や技術などなく、不衛生な場所ができ、そのすぐ近くには貴族が住む美しい街があるといった大きい格差が見れる構図となります。

そうしたなか1710年頃に順調に発展していたイギリスの財政は危機的状況にあり、それを立て直すために国策によって貿易と金融を扱う会社( 南海会社 )が設立されます。 貴族などの富裕層の間で投機ブームが巻き起こりますが、1720年にバブル崩壊を迎えてしまいます( 南海泡沫事件 )。

国中の貴族などの富裕層のみならず、一般庶民にも大打撃の中唯一生き残った産業がありました。 そう蒸留業です。 自国の穀物、安い税金、経済悪化のため、お酒の消費量が増える、貧困層でも買えるといった材料から、ジンの消費量が増えていき、蒸留産業のみならず農業産業も発展し、この頃からジンはボタニカルを漬け込む手法など、新しく独自のジンを製造していくようになります。 そしてジンを飲めば飲むほど経済が回復していくという好循環が起きます。 民衆は娯楽( 消費 )も生産業も経済もジンに頼るほか選択肢がなかったのかもしれません。

狂気のジン時代と 1回目のジン取締法

1744年作 トマス・ハドソンが描いた肖像画 「 グレートブリテン王・ジョージ2世 」

ジンの爆発的な消費上昇

ジンの製造・消費量はバブルが崩壊した財政を安定させる好循環が生まれ、それを止めようとする人はいませんでした、それが狂気のジン時代の始まりです。 ウィリアム3世がジンの蒸留ができるようにした1690年代の蒸留酒生産は200万リットルで、ほとんどが医薬品でした。しかし1720年代には1,000万リットル、1723年1,500万リットル以上の蒸留酒が生産され、そのほとんどがロンドン内でジンになって消費されていました。 1726年にはジンは薬用酒ではなく、 嗜好品として生産され貧困層を中心に男性、女性、子供までもが消費、携帯するほど庶民にとってなくてはならない存在になっていました。

1723年頃から社会問題は表面化します。 品質の悪い蒸留酒は飲む人の健康を害し、依存度を高め、それを買うためのお金を得るために犯罪が横行します。 この頃の庶民の死亡率は出生率を上回ってしまう程です。貧困層になると赤ちゃんのミルクをあげるお金もジンに変え、粗悪なジンを赤ん坊に飲ませていたというほど異常な事態が起きていました。 ジンのアルコール度数や質の悪さから、労働にも影響が出はじめ、ジンを多く飲む人はどんどん貧困になっていくという悪循環が生まれます。

1727年に王に即位したジョージ2世はこの問題を重くとらえ、1729年に1回目のジン取締法を発令します。

1回目のジン取締法
  • ジンに対して税金をかける。
  • スピリッツの販売を免許制にする。
  • 販売免許を取得するに為の費用が必要。

手軽にジンを入手できなくする、ジンを製造する人を減らし、品質を上げるといった目論見がありましたが、このジン取締法は裏目に出てしまいます。

ジンを製造するのにお金が必要になってしまったので、今まで質の悪かった原料がさらに安価な質の悪い原料を使うようになったことと、隠れてジンを製造、販売する人が増えてしまいました。

これにより、貧困層を中心に、隠れて販売しているお店でジンを購入するため、免許を取って販売している人の利益は上がらず、隠れて販売しているので税収は大幅に減り、無法地帯と化したスラムでは今までよりも大量のジンが消費され( 1727年に1,500万リットルの消費だったのが、1735年は倍の3,000万リットルまで増えました )、さらに依存度が以前よりも上がってしまい、労働、健康面での悪化が進んでしまいます。

2回目のジン取締法

1回目のジン取締法が失敗し、次は1733年に2回目のジン取締法を公布されます。

〚 2回目のジン取締法は・・・ 〛

  • 前回で制定したジンに対しての税金撤廃。
  • 前回で制定したジン販売に対しての免許制撤廃。
  • 街頭におけるスピリッツの販売禁止。
  • 街頭におけるスピリッツの販売を行った店舗に対する罰金制度

2回目のジン取締法も1回目と同様失敗に終わります、その理由は・・・。

まず法を犯した者を見つける監視役を近隣などの住人の密告(密告者には報酬あり)に頼っていました。この報告システムは、違反者が罰金を払い、その罰金の中から密告者へ報酬を払うというシステムだったため、違反者に払う能力が無ければ、そのまま払われないケースがあり、庶民はあまり密告に対して前向きな考えを持つ人は少なかったようです。それに加えて、ご近所付き合い、親族関係といった人間関係もプラスしてあまり成果は出ませんでした。

そして一番の失敗は、上記取り締まり法の一番下に記載した「 街頭におけるスピリッツの販売を行った店舗に対する罰金制度 」の「 店舗に対する 」という所です。 これはお店に対してのみであって、一般の住民に課されることのない法律です。 庶民はこの法律を逆手に取り、自宅に蒸留器を持ち込み、蒸留者を家へ招き安く製造を行いました。 免許制度や、ジンの税金は撤廃されていますし、お店でないので罰金も免れます。 よって貧しい人々はさらに安価でジンを手に入れやすくなり、ジンの消費が減ることはありませんでした。

3回目のジン取締法と追加法律

イギリス初代首相 ロバート・ウォルポール

3回目のジン取締法と密告者

1736年に入ると、ジンを依存して飲んでいる女性から生まれる胎児が、病弱で見た目もしわしわな体で生まれてきていることを議会は重く受け止め、これまでとは違いかなり厳しい法律を考案し、3回目のジン取締法を公布します。

  • ジン、ラム、ブランデー、ジュネヴァなどの全ての蒸留酒に規制をかける。
  • 蒸留酒に混ぜ物をしても規制内。
  • 蒸留酒の販売をするには免許が必要。
  • 免許を取得しても、毎年費用が必要。
  • 違法した場合は高額の罰金が課せられる。
  • 20ガロン販売するのに税金を支払わなければならない。

この法律により、これまで貧困層の唯一の娯楽であったジンは、一部の富裕層しか飲むことができなくなりました。 この時イギリス初代の首相であるロバート・ウォルポールは、この法案に反対の立場にありました。 まず高額な罰金を課しても、ジンの販売店の多くは貧しいので払える能力のないものが多く、意味を成さないこと。 それと貧困層から安易にジンを取り上げることは、暴動を起こしかねないといった考えからでした。

その後ウォルポールが恐れていた暴動が現実となります。 しかしその暴動はすぐに収まり、町にはいつも通りの活気が戻ります。 ただ民衆はジンを忘れたわけではなく、他の手を思いつくのです。

この時代ワインは高額な税金はかけられておらず、ジンをワインの色に変えたり、違法に蒸留したジンに少量のワインを加え、ワインとして販売したりと、巧妙な手を使い、結局みんなジンを飲んでいたのです。

そのことに気づいた議会は、早期に手を打ちます。 それは1737年にスイーツ・ワインを減税し販売価格を下げることで、ジンよりもアルコール度数が低く、依存度も低いスイーツ・ワインをジンの代わりに飲んでもらうという事でした。 そしてもう一つ、違法な蒸留所を密告した者には、必ず報酬が支払われるようになりました。

これにより密告者が増えましたが、これが裏目に出ます。 密告者が出るという事は、違法に蒸留していた場所も当然閉鎖されるため、民衆はジンを買う場所がなくなり、その不満の矛先は同じ民衆である密告者へと向かいます。 密告者を見つけて暴行を加えるといった事件が起き、中には軍が出動する事態にまで発展していき、密告者は、活動をできなくなってしまいました。

猫の看板

民衆は暴力に走るだけではありませんでした。 密告者であった一人が、密告に対して命のリスクを考え大きく方向転換します。 密告者は逆の立場になるジンを売る側に変わったのです。 家具屋で猫の壁掛けを購入し、道に面した場所に取り付けます。 その猫の壁掛けの手の部分からジンが出るようにパイプを取り付け、パイプの先は室内へと伸ばし漏斗を取り付けました。人を雇い「 猫の看板がある所でジンが買える 」という噂を流し、それを聞いた人々は、猫の口にお金を入れ、猫の手からお金の分のジンが出てくるという販売方法を実行します。 これを真似する人が増え、瞬く間にこの販売機は増えていきました。 この時のジンは、現在の物とは大きく違い、硫酸、ツヅラフジといった有毒なものが入っていたため( アルコールの酔いだけではなく、めまいや、頭の混乱などが生じ、強烈なキックがることから入れられていた )貧困層の健康はさらに悪くなります。 それどころか、赤ん坊が簡単に泣き止むのでジンを与えるのが当たり前になり、赤ん坊の死亡率が以上に高くなりました。

結局ジンの違法生産・消費量を抑えることができず、3回目のジン取締法はまたも失敗に終わりました。

4回目のジン取締法とオーストリア継承戦争

フォントノワの戦い

1743年政府はジンの消費を押さえようと様々な取り組みを行いますがどれもうまくいかず、この頃にはイギリス全土で4,000万リットルのジンが蒸留されているほどでした。

その最中ヨーロッパ全土を巻き込む戦争が起きます。 オーストリア継承戦争です。イギリスはもちろんこの戦争に参加。 そして必要になるのが戦争資金つまり税収です。

この時期4,000万リットルの蒸留酒が製造されてはいましたが、ほとんどが違法で製造されたものだったため、きちんと税が課せられていたのは200万リットルほどしかありませんでした。

戦争資金が欲しかった政府は新しいジン取締法を公布します。

  • ジンの税率を大幅に下げる。
  • ジンの販売免許費用の大幅値下げ。
  • 蒸留所は免許取得できない。

ジンの販売免許を庶民でも支払える金額にしたので、わざわざ危ない橋を渡らずともジンを販売することができるようになり、ジンの税率を下げることによって、ジンの値段も大幅に下がり、誰でも手軽にジンを飲むことができるようになりました。

これで政府の狙いであった戦争資金は確保できるようになります。 以前から問題視していた健康面、特に新生児に対しては何も解決されておらず、多くの反対者( 特に医療関係 )が存在していました。

しかし反対者が思っていたよりもこの取締法は功を奏します。 1744年頃にはジンの消費は1/5程まで減り、違法に製造する者も減ったため、税収も増加したのです。 ただ貧困層はやはりジンの依存度が高く改善とは程遠い状態のままでした。

他にも免許を得ることができなくなった蒸留所の不満も大きくなっていることが課題として残ります。

5回目のジン取締法と戦争の終結

ウィリアム・ホガース作「 ビール街とジン横丁 」

前回のジン取締法で、販売を禁止された蒸留所からの圧力と、戦争を継続させる資金を得るために1747年に5回目となるジン取締法を公布します。

  • ジンの税率を上げる。
  • 蒸留所でも販売免許取得可能。

ジンの税率を上げたといっても以前の様に大きく上げたわけではなく、民衆に無理のない程度上げた程度で、大きな変化は起きませんでした。 蒸留所でも販売免許が取得できるようになり、1年目から600件以上の蒸留所が販売免許を取得しました。 これにより税収を得た政府は目論見通りとなったのです。

しかし問題がないわけではなく、民衆( 特に貧困層 )のジン消費は相変わらずで、健康面だけでなく、売春、犯罪、高い死亡率、新生児の死亡率といった問題はそのままでした。

そんな翌年の1748年にオーストリア継承戦争が終結します。 その戦争の終わりはイギリス国内での問題をさらに膨らませることとなるのです。

戦争が終結すると約7万人の兵士が自国へと戻ります。 政府がその7万人全ての兵士を受ける受け皿などなく、多くの人が「 無職 」の状態になってしまったのです。 そうなると一気にスラム街に元兵士が増え、犯罪はさらに多くなり、スラム街での治安は1720年頃の爆発的にジンの消費が増えたころから何も変わっていない状態でした。

その当時の記録として上記の絵が残されています。 左は「 ビール街 」でビールを飲みながら生活を楽しんでいる富裕層や、一般民衆が描かれています。 それとは対照的に右の絵はジン横丁、つまりスラム街でジンを飲む人々が描かれています。真ん中の女性はおそらく梅毒にかかった娼婦で、赤ん坊を落とす様が描かれ、その下にやせ細って今にも死にそうな男性、左には商売道具ののこぎりを売ろうとしている人、その下には野良犬と骨を取り合っている男性、右上には首をつっている人、奥には棺桶に入れられている人など、まさに地獄絵図状態。 この絵の様子はイメージではなく、現実の様子を描いていたものというから驚きです。

最後のジン取締法

1751年6回目のジン取締法が公布されます。 戦争も終結し、過去最高に厳しい法律内容となります。

  • 刑務所、救貧院でのジン販売禁止。
  • 日用品などを販売している店舗でのジン販売禁止。
  • 蒸留所のジン販売禁止。
  • ジンの販売店は販売費用が必要。
  • 法律違反を犯した者、またはそれらを手助けした者を7年間流刑。

一度は蒸留所に許可した販売権を再度はく奪したことや、大幅な値上がりに民衆の暴動などが心配されましたが、今回は罰金ではなく、7年間の流刑という厳しい罰が功を奏したのか、少しずつではありますが、改善の方向へ進んでいきました。

最後のジン取締法が公布された頃のジン販売店は、合法1,300件、違法900件ほどの数がありましたが、1790年18世紀後半になると、違法販売店の姿はほとんどなくなり、合法の販売店約950程まで減少していました。この販売店とジンの消費量の減少に比例するかのように、人口は大きく増加していることを見ると、いかに粗悪なジンが民衆の健康を害していたかが伺えます。

ただジンはロンドンから姿を消していったのではなく、その姿を変えていったのです。

狂気のジン時代の終焉とその後

ジンビジネスと連続式蒸留器の登場

カフェ式連続式蒸留器

最後のジン取締法から約30年後、ジンは粗悪、安価、犯罪の元凶といった悪いイメージから、ジンの製造は誰もが簡単にできるものではなく、職人が作る品格ある物へとゆっくりと変わって行っていました。 1780年には蒸留所や販売店のトップが集まり、ジンの販売価格のバランスを管理したり、ジン製造の情報交換などを目的とした「 蒸留者クラブ 」が設立され、貿易を含めビジネスとして大きく舵を切っていた時代となりました。

1820年にはロンドンの人々がジンを求めていたことと、貿易とでジンは様々な発展を遂げていきます。 この頃にはスローベリーで香り付けしたスロージンをはじめとするフルーツジンなど現在でも飲まれているジン・リキュールの原型が生まれています。 ただ、まだ粗悪なジンは完全になくなってはおらず、質の良いものと一緒に生き残っていました。 しかし1826年にジンのみではなく、スピリッツの状況が大きく変わる出来事が起きます。 スコットランド中東部の蒸留者「 ロバート・スタイン 」が新しい蒸留器を発明したのです。 それは連続して蒸留を行い、不純物を限りなく除去し、エタノールを精製し、純度の高いスピリッツを造れる「 連続式蒸留器 」です。

この発明により、ジンは粗悪なジンから純度の高い原酒を造り、様々なボタニカルを加え再蒸留することで、それぞれの蒸留所の個性を持った純度の高いジンを作ることができるようになりました。

ジンのライバル登場

1830年頃にイギリス政府は、同じ過ちは犯さないようにと、手を打ちます。 庶民にはアルコール度数の高いジンではなく、比較的アルコール度数の低いビールを推奨し始めました。 ビール販売免許を安価にし、ビールへの税は廃止され、消費量もジンを上回るようになりました。ただ大きく伸びるかと思っていたのですが、もう一つの飲み物が台頭します。それはコーヒーです。 コーヒーは以前希少性が高く、貴族くらいしか飲めないような値段の高さでしたが、この時代には一般階級の人々が飲めるくらいにまで下がっていました。

このままジンは影を薄めていくのかと思っていた矢先、ジンは狂気のジン時代とは逆の形で復活します。 ビールを販売していたお店が、今度はジンにも目を向け始めます。 お店を豪華に装飾し、レベルの高いサービスを提供するお店が増え始め、狂気のジン時代のイメージとはまさに真逆のイメージへと変貌を遂げたのです。

ただ、狂気のジン時代のジンは全くなくなったわけではなく、明け方まで粗悪なジンを飲み、犯罪に走るといった事件などはまだ多数存在していたようです。

19世紀・20世紀

19世紀に入るころには、甘みを付けたジンは無くなっていき、ワインと同様にこの時代は辛口が好まれるようになり、1879年にビーフィーター独自のレシピで成功を納め、ホテルやバーでは、ジュネヴァ、オールド・トム・ジンではなく、ドライ・ジンが目立つようになり、1930年、サボイカクテルブックでもドライ・ジンがおすすめされるようになりました。

現在ではジンのスタンダードはもはやドライ・ジンといって間違いがないほど世界で浸透しており、多くのカクテルで使われています。

オールド・トム・ジンの歴史

1736年、国民がジン依存度が高くなり、生まれてくる胎児にまで影響が生きだしていました。 これらを重く受け止めた政府は3回目のジン取締法を発令します。

3回目のジン取締法は以下の通り・・・

ジン、ラム、ブランデー、ジェネヴァなどの全ての蒸留酒に規制をかける。
蒸留酒に混ぜ物をしても規制内。
蒸留酒の販売をするには免許が必要。
免許を取得しても、毎年費用が必要。
違法した場合は高額の罰金が課せられる。
20ガロン販売するのに税金を支払わなければならない。

この法律により暴動、犯罪が多発します。 そしてそれらが収まるころ、民衆は怒りから冷静さを取り戻し、知恵を使います。上記でも記載した 猫の看板 を店の屋外に設置し、猫の口からジンの料金を入れ、猫の手からジンが出るといったシステムが広まります。 オールド・トム・ジンのトムはその猫の看板(雄猫)からきています。 この時期のジンは粗悪で様々な砂糖や甘味料、スパイスなどで雑味をごまかしていました。 この後にドライ・ジンと明確に分けるために「 オールド・トム・ジン 」という名が付くことになります。19世紀ごろからドライ・ジンはオールド・トム・ジンと取って代わりジンの中でも最もポピュラーな存在となり、生産数も激減していきます。しかしこの間にもこのオールド・トム・ジンの名を残すカクテルが生まれます。 1930年頃、ロンドンのリマーズ・クラブのボーイ長「 ジョン・コリンズ 」氏が考案した「 トム・コリンズ 」です。別名「 ジョン・コリンズ 」とも呼ばれるこのカクテルは、現在ではドライ・ジンに砂糖を加えて提供されることもありますが、本来はオールド・トム・ジンをベースに使うカクテルです。 ただ世界的にも歴史的にも有名なカクテルが誕生したものの、やはりドライ・ジンの勢いには勝てず、一時ロンドンで完全に生産が終了するにまでなりました。

しかし、多くのバーテンダーからの希望が多く、1800年のレシピのままでイギリスのヘイマンズ蒸留所から復活し、現在に至る形となりました。

感想・まとめ

ジンはオランダから入って来て、ロンドンで生まれ変わり、政治を潤し、戦争資金になり、民衆から愛され、国民の健康を害したりとロンドンの人たちにとって良くも悪くもなくてはならない存在でした。 そうした問題と進化を繰り返し、現在のクリーンで香り立つ世界で使用される形となりました。

※ ジュネヴァの誕生・歴史は ⇒ コチラ