ドライジン と オールド・トム・ジンの誕生・歴史|カクテルのお酒・スピリッツ編

ドライジンの歴史のタイトル画像

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それではごゆっくりとご覧ください。

世界4大スピリッツの中でも特に人気のある「 ジン 」。

カクテルのレシピを見ても、特に数が多いのが「 ジンベース 」。 カクテルの王様と言われている「マティーニ 」もジンベースです。他にもショートカクテルで代表的なカクテルに「 ギムレット 」があります。 ロングカクテルでは「 ジントニック 」、「 シンガポールスリング 」などが有名です。

ジンはどのように広まり定着していったのか・・、今回はそのジンの歴史についてご紹介いたします。

目次
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ジュネヴァ

オランダ産ジン・ノールドオールドジュネヴァ

ジンの原型である「ジュネヴァ」は、現在のオランダやベルギーで誕生しました。もともとは薬用酒として生まれたジュネヴァですが、ジェニパーベリーの爽やかな香りが人気を呼び、やがてオランダ国民に深く浸透していきます。
その後、ジンはイギリスへと渡り、国内でも大きな人気を博しました。18世紀には史上最高のジン消費量を記録し、税収の増加に貢献しますが、同時にアルコール中毒や犯罪も増え、一時は死亡率が出生率を上回るほどの社会問題へと発展しました。この時代は後に「狂気のジン時代」と呼ばれるようになります。

19世紀に入ると、連続式蒸留機の開発により、それまでの雑味を砂糖や大量のボタニカルで隠す必要がなくなり、よりクリーンで上質なジンが製造可能になりました。現在のドライジンの製法は、この時期に確立されます。

やがてジンは海を渡ってアメリカへと伝わり、そこで再び人気を得ます。今度はカクテルベースとして用いられるようになり、世界中で親しまれる存在となりました。

こうした歴史を経て、「ジンはオランダで生まれ、イギリスが育み、アメリカが輝かせた」という言葉が生まれたのです。

ドライジンの歴史・イギリスへの入荷

1618年から1648年のヨーロッパ30年戦争の白山の戦い

Photo|チェコ・プラハ郊外で行われた 白山の戦いの絵

ジンの原型であるジュネヴァがイギリスに伝わったのは、1618年から1648年にかけてヨーロッパ全土で行われた三十年戦争の最中でした。

当時のジュネヴァは、イギリス国内で少量生産されていた薬用酒と同じような扱いで、国民から絶大な人気を誇るにはほど遠い存在でした。

三十年戦争終結後の1649年、当時の国王チャールズ1世が処刑され、イギリスはキリスト教カルヴァン派のピューリタン(清教徒:ローマ教会と絶縁し、聖書に基づいた信仰の清純さを求めた宗派)であるオリバー・クロムウェルによって支配されるようになります。この宗派には「飲酒は人間を堕落させるもの」という教えがあり、蒸留業は発展しませんでした。

その後、1660年にクロムウェルが死去するとチャールズ2世が王政を復活させますが、蒸留業は多少上向いたものの、大きな発展は見られませんでした。

ジュネヴァからジンへ

1672年イングランド王のウィリアム3世

Photo|ウィリアム3世

名誉革命

1688年から1689年にかけて、ジンにとって大きな転機が訪れます。
当時、プロテスタント信仰の強い議会と国民、そしてカトリック信仰のジェームズ2世との間には深い溝がありました。

その状況下で、ジェームズ2世がカトリック信仰をさらに重んじるため、プロテスタント信仰の大臣を罷免してしまいます。この出来事をきっかけに、プロテスタント信仰の議会がついにジェームズ2世に対してクーデターを起こしました。

結果として、プロテスタントとして育てられたジェームズ2世の長女メアリーに王位を継承させ、さらに当時オランダの統領でありメアリーの夫であったオレンジ公ウィリアム3世を、オランダ統領と兼任でイングランドの国王として迎えます。これが後に「名誉革命」と呼ばれる出来事です。

ウィリアム3世が国王に就くと、蒸留産業にも大きな変化が訪れます。ウィリアム3世の自国酒でもあるジュネヴァ(ジンの原型)がイギリス国内に広まり、人気を集めました。

ジュネヴァが一気に広がった背景には、オランダ出身であるウィリアム3世の人気に加え、当時イギリスで飲まれていたフランス産ワインやブランデーが高関税によって一般国民には高嶺の花であり、上流階級の限られた人々しか口にできなかったという事情がありました。

さらに蒸留業にとって追い風となる出来事も起こります。
プロテスタント信仰のウィリアム3世は、カトリック信仰のフランス王ルイ14世を敵視しており、1689年にはフランスからのブランデーやワインの輸入を禁止しました。

その後、1692年に輸入は再開されますが、関税は以前よりもさらに引き上げられ、上流階級の中でもごく一部の富裕層しか飲むことができなくなります。
ウィリアム3世は、今後のフランスとの戦争に備えて資金を蓄えるため、国内の税収を増やす政策を進めていきました。

新しい国政によるジンの台頭

穀物大麦

それまで50年間蒸留業を独占していたリヴァリカンパニーから独占権が取り消され、国民であれば誰でも蒸留器や樽を購入し、蒸留酒を製造できるようになりました。さらに、国内の穀物から生産される蒸留酒にかかる税金も引き下げられます。これにより、パン製造用に作られたものの品質が不足していた穀物を蒸留酒に回すことが可能となり、いわゆる「穀物生産のロスカット」が実現しました。地主たちからの支持も同時に得られます。

しかし問題もありました。原料となる穀物の多くが質の悪いものであったため、結果として味わいの劣る蒸留酒ができてしまったのです。もともとイギリスでは蒸留酒づくりが盛んではなかったこともあり、蒸留技術が未熟で、オランダのジュネヴァのような上質さはありませんでした。

そのため、多くの蒸留酒にはスパイスやハーブを加えて味をごまかしていましたが、当然ながら高品質な蒸留酒になることはありません。それでもこの粗悪な蒸留酒は、税金が安くビールよりも安価で購入できるうえ、アルコール度数が高く短時間で酔えることから、貧しい労働者を中心に一気に広まっていきます。

その後もジュニパーベリーを中心にさまざまなスパイスやハーブを取り入れて進化していきますが、質の悪い穀物の使用はさらに加速し、上質さは向上しませんでした。

こうした状況から、オランダの上質なジュネヴァとイギリスの粗悪なジュネヴァを区別するため、名称が変わります。オランダ産は「Genever」、イギリス産は「ジュネーヴ(Geneva)」と表記されるようになり、さらにイギリスの「Geneva」は言いやすい「Gin」へと呼び名が変わっていき、この名前が定着しました。

狂気のジン時代とジン取締法の始まりの始まり

ヨーロッパのバブル崩壊の南海泡沫事件の絵

Photo|エドワード・マシュー・ウォードによる作品「 南海泡沫事件 」

1700年代前半、イギリスは世界でもトップクラスの急速な発展を遂げていました。
民衆の多くは、田舎で安い賃金の農作業に従事するよりも、夢や成り上がるチャンス、さらには貴族や商人との出会いを求めてロンドンへ移住するようになります。

しかし、そうしたチャンスをつかめる人はごくわずかでした。多くはロンドンでも低賃金の仕事に就き、その日の宿や食事すらままならない状況に陥ります。結果としてスラム街が形成され、産業廃棄物や一般のゴミを処理する施設や技術もない不衛生な地域が生まれます。そのすぐ隣には貴族が住む美しい街が並ぶという、極端な格差が広がっていきました。

1710年頃、順調に発展していたイギリスの財政は危機に陥り、それを立て直すために国策で貿易・金融を扱う南海会社が設立されます。貴族などの富裕層の間で投機ブームが巻き起こりますが、1720年にはバブル崩壊(南海泡沫事件)を迎えました。

国中の貴族や富裕層のみならず、一般庶民にも大打撃が広がる中、唯一生き残った産業がありました。それが蒸留業です。
自国の穀物、安い税金、経済悪化による酒類消費の増加、さらに貧困層でも手が届く価格――これらの要因が重なり、ジンの消費量は拡大していきます。その結果、蒸留産業だけでなく農業産業も発展し、この頃からジンはボタニカルを漬け込むなど独自の製法を取り入れるようになりました。

そしてジンを飲めば飲むほど経済が回復していくという、ある種の好循環が生まれます。民衆にとって、娯楽(消費)、生産、経済のすべてがジンに結びついていたのかもしれません。

狂気のジン時代と 1回目のジン取締法

グレートブリテン王・ジョージ2世

Photo|1755年以降作 「 グレートブリテン王・ジョージ2世 」肖像画

ジンの爆発的な消費上昇

ジンの製造・消費量は、バブル崩壊後の財政を安定させる好循環を生み出し、それを止めようとする人はいませんでした。これが「狂気のジン時代」の始まりです。

ウィリアム3世が蒸留を許可した1690年代、蒸留酒の生産量はわずか200万リットルで、その多くは医薬品として使われていました。しかし1720年代には1,000万リットル、そして1723年には1,500万リットル以上が生産され、そのほとんどがロンドン内でジンとして消費されるようになります。1726年にはジンは薬用酒ではなく嗜好品として生産され、貧困層を中心に男性・女性・子供までもが消費・携帯するほど、庶民にとって欠かせない存在になっていました。

しかし1723年頃から、この状況は徐々に社会問題として表面化します。品質の悪い蒸留酒は飲む人の健康を害し、依存度を高め、さらにそれを買うためのお金を得る目的で犯罪が横行しました。

当時、庶民の死亡率は出生率を上回るほど深刻で、貧困層では赤ちゃんのミルク代までもジンに使い、粗悪なジンを赤ん坊に飲ませるという異常な事態まで発生していました。

さらにジンの高いアルコール度数と質の悪さから労働にも悪影響が出始め、ジンを多く飲む人々はますます貧困に陥るという悪循環が生まれます。

この深刻な状況を重く受け止め、1727年に王位に就いたジョージ2世は、1729年に「第一回ジン取締法」を発令しました。

1回目のジン取締法

  • ジンに対して税金をかける。
  • スピリッツの販売を免許制にする。
  • 販売免許を取得するに為の費用が必要。

ジンの入手を難しくし、製造者を減らして品質を向上させる――そんな目論見で導入されたジン取締法でしたが、その結果は裏目に出てしまいました。

ジンを製造するにはより多くのお金が必要となり、もともと質の悪かった原料が、さらに安価で質の悪いものへと置き換えられていきました。また、隠れてジンを製造・販売する人々が急増してしまいます。

このため、貧困層を中心に人々は免許を持たない闇の販売店でジンを購入するようになり、正規の販売者には利益が回らず、税収も大幅に減少しました。結果として、無法地帯化したスラムでは以前にも増して大量のジンが消費されるようになります(1727年に1,500万リットルだった消費量は、1735年には倍の3,000万リットルにまで増加)。

こうして依存度は一層高まり、労働や健康面への悪影響が深刻化していったのです。

2回目のジン取締法

ジョージ2世2ギニー硬貨

1回目のジン取締法が失敗し、次は1733年に2回目のジン取締法を公布されます。

2回目のジン取締法は・・・

  • 前回で制定したジンに対しての税金撤廃。
  • 前回で制定したジン販売に対しての免許制撤廃。
  • 街頭におけるスピリッツの販売禁止。
  • 街頭におけるスピリッツの販売を行った店舗に対する罰金制度

2回目のジン取締法も、1回目と同様に失敗に終わります。その理由は大きく二つありました。

まず、違反者を見つけるための監視役を近隣住民などの密告に頼っていたことです(密告者には報酬が支払われる仕組み)。このシステムは、違反者が罰金を払い、その罰金から密告者へ報酬を渡すというものでした。しかし、違反者に支払い能力がなければ報酬が支払われず、庶民の多くは密告に前向きではありませんでした。さらに、ご近所づきあいや親族関係といった人間関係も影響し、成果はほとんど出ませんでした。

そして最大の失敗は、取り締まり法の末尾に記載された「街頭におけるスピリッツの販売を行った店舗に対する罰金制度」の「店舗に対する」という部分でした。つまりこの罰則はお店に対してのみ課され、一般住民には適用されない法律だったのです。

庶民はこの法律を逆手に取り、自宅に蒸留器を持ち込み、蒸留者を家へ招いて安価に製造を行いました。免許制度やジンの税金も撤廃されており、お店でないため罰金も免れます。こうして貧しい人々はさらに安価でジンを手に入れやすくなり、結果としてジンの消費は減るどころか続いていきました。

3回目のジン取締法と追加法律

イングランド政治家ロバート・ウォルポール

Photo|イギリス初代首相 ロバート・ウォルポール

3回目のジン取締法と密告者

1736年になると、ジンを常習的に飲んでいる女性から生まれる胎児が、病弱でしわの多い体で生まれていることが社会問題となり、議会はこれを重く受け止めます。そしてこれまでとは異なり、かなり厳しい内容の「3回目のジン取締法」を公布しました。

この法律では、ジン、ラム、ブランデー、ジュネヴァなど、すべての蒸留酒に規制がかけられました。

  • ジン、ラム、ブランデー、ジュネヴァなどの全ての蒸留酒に規制をかける。
  • 蒸留酒に混ぜ物をしても規制内。
  • 蒸留酒の販売をするには免許が必要。
  • 免許を取得しても、毎年費用が必要。
  • 違法した場合は高額の罰金が課せられる。
  • 20ガロン販売するのに税金を支払わなければならない。

この法律によって、これまで貧困層にとって唯一の娯楽だったジンは、一部の富裕層しか飲めないものとなりました。イギリス初代首相ロバート・ウォルポールはこの法案に反対しており、その理由は「高額な罰金を課しても貧しい販売店には支払う能力がなく、効果がないこと」と「貧困層から安易にジンを取り上げれば暴動につながりかねないこと」でした。

やがてウォルポールの懸念は現実となり、暴動が発生します。しかしその暴動はすぐに収まり、町にはいつも通りの活気が戻りました。ただし民衆がジンを忘れたわけではなく、別の手段を考え出します。

当時、ワインには高額な税金がかかっていなかったため、ジンにワインの色をつけて「ワイン」として販売したり、違法に蒸留したジンに少量のワインを混ぜて「ワイン」と称して売ったりと、巧妙な方法で結局ジンを飲み続けていたのです。

これに気づいた議会は、早期に対策を打ちます。1737年にスイートワインの税金を引き下げ、販売価格を下げることで、アルコール度数や依存度の低いスイートワインをジンの代替として広めようとしました。さらに、違法な蒸留所を密告した者には必ず報酬が支払われる制度を整えました。

こうして密告者は増えましたが、結果的にこれも裏目に出ます。密告が増えるということは違法な蒸留所が閉鎖されるということであり、民衆はジンを買う場所を失います。その不満の矛先は、同じ民衆である密告者に向けられ、暴行事件が相次ぎ、中には軍が出動する事態にまで発展しました。最終的に密告者は活動できなくなっていきます。

猫の看板

ジンの販売機・オールドトムキャット猫の看板

Photo|オールドトムキャット( 猫の看板 )

民衆は暴力に走るだけではありませんでした。ある密告者が、密告による命のリスクを考え、大きく方向転換します。彼は密告する側から一転して、ジンを売る側に回ったのです。

彼は家具屋で猫の壁掛けを購入し、それを道に面した場所に取り付けました。猫の手の部分からジンが出るようにパイプを設置し、そのパイプの先を室内へ伸ばして漏斗を取り付けます。そして人を雇い、「猫の看板がある場所でジンが買える」という噂を流しました。噂を聞いた人々は、猫の口にお金を入れると、その金額分のジンが猫の手から出てくるという仕組みで購入できたのです。

この仕組みを真似する人が増え、瞬く間に「猫のジン販売機」は広がっていきました。しかし当時のジンは現在のものとは大きく異なり、硫酸やツヅラフジといった有毒なものが混入されていました(これらはアルコールによる酔いだけでなく、めまいや混乱などを引き起こし、強烈なキック感があるため添加されていたとされます)。その結果、貧困層の健康はさらに悪化しました。

それどころか、赤ん坊が簡単に泣き止むためジンを与えることが当たり前になり、赤ん坊の死亡率が異常に高くなってしまいます。

こうして結局、ジンの違法生産・消費量を抑えることはできず、3回目のジン取締法もまた失敗に終わったのです。

4回目のジン取締法とオーストリア継承戦争

オーストリア継承戦争のフォントノワの戦い

Photo|フォントノワの戦い

1743年、政府はジンの消費を抑えようとさまざまな取り組みを行いましたが、どれも効果を上げることができませんでした。この頃には、イギリス全土で年間4,000万リットルものジンが蒸留されていたといわれています。

その最中、ヨーロッパ全土を巻き込むオーストリア継承戦争が勃発し、イギリスも参戦します。必要となるのは戦争資金、すなわち税収でした。

当時、4,000万リットルの蒸留酒が製造されていましたが、そのほとんどが違法製造で、正しく税が課されていたのはわずか200万リットル程度に過ぎませんでした。

戦争資金を確保するため、政府は新たなジン取締法を公布します。その内容は次の通りです。

  • ジンの税率を大幅に下げる。
  • ジンの販売免許費用の大幅値下げ。
  • 蒸留所は免許取得できない。

庶民でも支払える金額に販売免許が設定されたことで、危険を冒して違法販売をする必要がなくなり、合法的にジンを販売できるようになりました。税率の引き下げによってジンの価格も大きく下がり、誰もが手軽にジンを飲める環境が整います。こうして政府の狙いだった戦争資金の確保は実現しました。

一方で、以前から問題視されていた健康面、特に新生児への影響は解決されず、医療関係者を中心に多くの反対意見が存在していました。しかし、反対者の予想に反してこの取締法は一定の成果を上げます。1744年頃にはジンの消費が約5分の1に減少し、違法製造も減少したことで税収が増加したのです。ただし、貧困層のジン依存は依然として深刻で、改善には程遠い状況でした。

さらに、免許を得られなかった蒸留所からの不満も大きく、課題として残されました。

5回目のジン取締法と戦争の終結

前回のジン取締法で販売を禁止された蒸留所からの圧力、そして戦争を継続するための資金を得る目的から、政府は1747年に5回目となるジン取締法を公布しました。

この法律の主な内容は次の通りです。

  • ジンの税率を上げる。
  • 蒸留所でも販売免許取得可能。

ただし、ジンの税率は以前のように大幅に引き上げられたわけではなく、民衆に負担の少ない範囲にとどめられました。そのため大きな変化は起きず、むしろ蒸留所でも販売免許が取得できるようになったことで、初年度から600件以上の蒸留所が販売免許を取得し、政府は税収を確保するという目論見どおりの成果を上げます。

しかし問題がなくなったわけではありません。民衆、特に貧困層のジン消費は相変わらずで、健康面だけでなく、売春・犯罪・高い死亡率・新生児の死亡率といった問題は依然として続いていました。

そんな中、翌年の1748年にオーストリア継承戦争が終結します。この戦争の終わりが、イギリス国内の問題をさらに深刻化させることになりました。

戦争の終結後、約7万人の兵士が自国へ戻ってきましたが、政府には彼ら全員を受け入れる体制がなく、多くが「無職」の状態に陥ります。結果としてスラム街に元兵士が急増し、犯罪はさらに多発。スラム街の治安は、1720年頃にジン消費が爆発的に増えた時代からほとんど変わっていない状態のままでした。

狂気のジン時代を描いた絵・ビール街とジン横丁

Photo|ウィリアム・ホガース作「 ビール街とジン横丁 」

その当時の記録として上記の絵が残されています。 左は「 ビール街 」でビールを飲みながら生活を楽しんでいる富裕層や、一般民衆が描かれています。 それとは対照的に右の絵は「 ジン横丁 」、つまりスラム街でジンを飲む人々が描かれています。

この絵がどれほど恐ろしいか、細かく見ていきましょう。

狂気のジン時代を描いた絵・ビール街とジン横丁

まずは「 ジン横丁 」です。注目カ所に番号を振り、それぞれ拡大した画像を紹介します。

狂気のジン時代を描いた絵・ビール街とジン横丁

= ノコギリを持っている男性は質屋の店主で、帽子を被っている男性はジンを買う為に、自分の商売道具であるノコギリを売りに出すために査定交渉しています。 その横にいる女性も同じく生活必需品のやかんや鍋を質屋に出そうとしています。

= 1番質屋の下では、食料などが買えず、残飯を野良犬と奪い合っている様子です。

= この女性はジンを飲み、酔っ払いながら嗅ぎタバコを吸っている時に、自分の赤子が落ちてしまっていることにも気づかない様子で、脚の斑点から梅毒にかかっている売春婦です。

= 戦争から帰ってきた元兵士で、「 ジンは飲むな 」というパンフレットを持ったままジンを飲み、餓死寸前、または餓死している様子です。

狂気のジン時代を描いた絵・ビール街とジン横丁

= ジンの飲み過ぎで亡くなってしまった女性を、サイズが全くあっていない棺桶に詰め込んでいる様子で、横にいる子供を残して亡くなっています。 こういった子供の大半は、引き取りても無く、そのまま餓死することがほとんどだそうです。

= この時代のジンには、お酒に酔う以外にも幻覚作用の出るハーブが含まれていた事から、錯乱状態になり、この男性のように自分の子供を串刺しにしてフイゴ( 空気を送り込む道具 )を帽子に見立て意気揚々と前進している様子で、右横から自分の子供を助けようと走ってくる母親の姿があります。

⑦ = ミルク代をジンに変えた母親が、自分の赤子が泣き止まないため、赤子にジンを与えている様子です。

⑧ = 生活に耐えられなくなった人が首つり自殺をしています。

⑥・⑦の辺りの人達は、ジンの販売店を襲っている暴徒と化した人々が描かれています。

これら統べて誇張しているのではなく、そのままを描いているというから驚きです。 まさに「 地獄絵図 」状態です。

その恐ろしいジン横丁とは反対のビール街を見ていきましょう。

狂気のジン時代を描いた絵・ビール街とジン横丁

= ジン横丁とは違い、楽しそうにビールを飲んでいる人が目立っています。 一生懸命働き、ビールを飲んで健康で楽しい生活をしています。ジン横丁では繁盛していた質屋も、こちらではお客さんがいないため、看板が斜めになり、繁盛していない様を描いています。

= 左の上では楽しく絵を描いている男性が見えます。 2枚の絵の上側は、楽しくダンスをしている様を描いた絵ですが、下の絵はジンにも見え、その横に吊っているボトルは、ジン横丁の兵士が左手に持っていたボトルと同じ形をしています。 ビールを飲んで豊かな様を描いているビール街ですが、全くジンを飲む人がいなかったわけではないようです。 このままだと、ビール街もいずれは・・・。

というとても現実に起こっていたとは思えない絵画でした。

最後のジン取締法

流刑または島流しの様子

Photo|流刑の様子

1751年、6回目のジン取締法が公布されました。戦争も終結し、これまでで最も厳しい内容の法律となります。

この法律の主なポイントは以下の通りです。

  • 刑務所、救貧院でのジン販売禁止。
  • 日用品などを販売している店舗でのジン販売禁止。
  • 蒸留所のジン販売禁止。
  • ジンの販売店は販売費用が必要。
  • 法律違反を犯した者、またはそれらを手助けした者を7年間流刑。

一度は蒸留所に許可していた販売権を再び剥奪したことや、大幅な値上がりにより民衆の暴動が懸念されました。しかし今回は罰金ではなく「7年間の流刑」という厳しい罰則が功を奏したのか、少しずつではありますが状況は改善に向かいます。

最後のジン取締法が公布された当時、ジン販売店は合法が約1,300件、違法が約900件ほどありました。しかし18世紀後半、1790年頃には違法販売店がほとんど姿を消し、合法の販売店も約950件にまで減少します。この販売店の減少とジン消費量の減少に比例するかのように、人口が大きく増加していることから、粗悪なジンがいかに民衆の健康を害していたかがうかがえます。

ただしジンはロンドンから完全に姿を消したわけではなく、その形を変えていったのです。

狂気のジン時代の終焉とその後

コフィー式連続式蒸留機

Photo|コフィー式連続式蒸留機

ジンビジネスと連続式蒸留機の登場

最後のジン取締法から約30年後、ジンは「粗悪・安価・犯罪の元凶」という悪いイメージから脱し、誰もが簡単に製造できるものではなく、職人が作る品格ある飲み物へとゆっくりと姿を変えていきました。

1780年には蒸留所や販売店のトップが集まり、ジンの販売価格のバランス管理や製造情報の交換を目的とした「蒸留者クラブ」が設立されます。ここからジンは貿易を含むビジネスとして大きく舵を切る時代に入りました。

1820年にはロンドンの人々のジン需要に後押しされ、貿易とジンはさらなる発展を遂げていきます。この頃には、スローベリーで香りづけしたスロージンをはじめとするフルーツジンなど、現在でも飲まれているジンリキュールの原型が誕生しました。

ただし、まだ粗悪なジンが完全になくなったわけではなく、質の良いジンと並行して存在していました。そんな中、1826年にスピリッツ全体に大きな変化をもたらす出来事が起こります。スコットランド中東部の蒸留者ロバート・スタインが、新しい蒸留器「連続式蒸留機」を発明したのです。

この蒸留器は、連続して蒸留を行うことで不純物を限りなく除去し、エタノールを精製して純度の高いスピリッツを生産することが可能でした。この発明により、ジンは粗悪な原酒から脱却し、純度の高い原酒にボタニカルを加えて再蒸留することで、各蒸留所の個性を生かした高品質なジンを造ることができるようになったのです。

ジンのライバル登場

白いカップに入ったコーヒー

1830年頃、イギリス政府は同じ過ちを繰り返さないよう、手を打ち始めました。庶民にはアルコール度数の高いジンではなく、比較的度数の低いビールを推奨し始めたのです。

ビール販売免許を安価にし、ビールへの税を廃止したことで、消費量はジンを上回るようになりました。ただし、大きく伸びるかと思われたところに、もう一つの飲み物が台頭します。それがコーヒーです。かつては貴族でなければ飲めないほど高価だったコーヒーが、この時代には一般階級の人々でも手に届く価格にまで下がっていました。

このままジンは影を潜めていくかと思われた矢先、ジンは「狂気のジン時代」とは逆の形で復活します。ビールを販売していたお店が今度はジンにも目を向け始めたのです。

お店は豪華に装飾され、レベルの高いサービスを提供する店舗が増え、狂気のジン時代とは正反対の洗練されたイメージへと変貌を遂げていきました。

ただし、狂気のジン時代のような粗悪なジンが完全に姿を消したわけではありません。明け方まで粗悪なジンを飲み、犯罪に走るといった事件は依然として多数存在していたようです。

19世紀・20世紀

ドライジンのビーフィーターとバー

Photo|画像提供 SUNTORY

19世紀に入る頃には、ジンに甘味をつけるスタイルは次第に姿を消し、ワインと同じく辛口が好まれる時代へと移っていきました。1879年にはビーフィーターが独自のレシピで成功を収め、ホテルやバーではジュネヴァやオールド・トム・ジンに代わり、ドライジンが目立つようになります。さらに1930年には『サボイ・カクテルブック』でもドライジンが推奨されるようになりました。

現在では、ジンのスタンダードといえばドライジンといっても過言ではないほど世界に浸透しており、多くのカクテルで使われています。

オールド・トム・ジンの歴史

イギリスのジン狂気時代の販売店

1736年、国民のジン依存度が高まり、生まれてくる胎児にまで悪影響が及ぶようになっていました。これを重く受け止めた政府は、3回目のジン取締法を発令します。

その内容は以下の通りです。

ジン、ラム、ブランデー、ジェネヴァなどの全ての蒸留酒に規制をかける。
蒸留酒に混ぜ物をしても規制内。
蒸留酒の販売をするには免許が必要。
免許を取得しても、毎年費用が必要。
違法した場合は高額の罰金が課せられる。
20ガロン販売するのに税金を支払わなければならない。

この厳しい法律により暴動や犯罪が多発しましたが、やがてそれらが収まる頃、民衆は怒りから冷静さを取り戻し、知恵を使い始めます。店の屋外に猫の看板を設置し、猫の口から料金を入れると猫の手からジンが出てくるというシステムが広まりました。

「オールド・トム・ジン」の“トム”は、この猫の看板(雄猫)に由来しています。当時のジンは粗悪で、砂糖や甘味料、スパイスなどで雑味をごまかしていました。その後、ドライジンと明確に区別するために「オールド・トム・ジン」という名称が生まれます。

19世紀に入る頃には、ドライジンがオールド・トム・ジンに取って代わり、ジンの中でも最もポピュラーな存在となり、生産量も激減していきました。しかし、この間にも「オールド・トム・ジン」の名を残すカクテルが誕生します。それが1930年頃、ロンドンのリマーズ・クラブのボーイ長ジョン・コリンズ氏が考案した「トム・コリンズ」です。

「ジョン・コリンズ」とも呼ばれるこのカクテルは、現在ではドライジンに砂糖を加えて提供されることもありますが、本来はオールド・トム・ジンをベースにしたものです。世界的にも有名なカクテルが誕生したものの、ドライジンの勢いには勝てず、やがてロンドンでオールド・トム・ジンの生産が完全に終了する時期もありました。

しかし多くのバーテンダーの希望により、1800年代のレシピそのままでイギリスのヘイマンズ蒸留所から復活し、現在に至っています。

感想・まとめ

ジンはオランダからイギリスへ渡り、ロンドンで生まれ変わりました。政治を潤し、戦争資金となり、民衆に愛される一方で、国民の健康を害するなど、ロンドンの人々にとって良くも悪くも欠かせない存在だったのです。

こうした問題と進化を繰り返しながら、ジンは現在のようなクリーンで香り高く、世界中で愛されるスタイルへと形を変えていきました。

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